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飽き性のくせに次々と新しい設定を妄想して楽しむたかのんの自己満足専用ページ。掲示板にてつらつらと妄想語り進行中。『はじめに』を呼んでください。感想もらえると飛んで喜びます。掲示板は一見さんお断りに見えないこともないけれど、基本誰でも書き込みOKです。
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過去の遺物
過去の遺物 三月中旬。
春休み二日目の朝。 未だ未開封の段ボールや、脱ぎ捨てたままの衣服が散乱している寝室に置かれたキングサイズのベットの中、俺は清々しい気分で目を覚ました。普段なら腹が立つような目覚ましの無機質な音も、今はこの俺の目覚めを祝福する賛美歌のように聞こえる。 不思議な物だ、環境というものはそこにいる者の感覚まで変えてしまうらしい。 「……いやぁ、素晴らしい朝だぜ……ふわぁあ……」 呟いて、幸せな欠伸と共に俺は今の自分の境遇を考え、笑みを零した。 俺は――つい昨日から、ようやく念願の一人暮らしが出来ることになったのだ。 * 黒羽、という単語を聞いて、世の人々は何を連想するだろうか。 十中八九、我が国の経済の中心に君臨する五大財閥が一つ、黒羽家を想像するに違いない。これは誇張でも何でもなく、事実だ。巨大な中央部が様々な産業部門の独立している企業を統制し、その一族が所有、支配を行う多角的事業経営体。コンツェルン。財閥。 ここまで来ればわかるだろうが、そう、俺はその黒羽の次子だ。 黒羽の息子と言うことで、俺は幼い頃から何一つ不自由のない暮らしを送ってきた。腹が減ったと言えば、シェフがおやつを作ってくれる。本が読みたいと言えば、お付きのメイドが手ごろな本を持ってきてくれる。一般の家庭に生まれた者には、とてもじゃないがわからない、次元の違う生活を送ってきたのだ。 だが、しかし。 俺はそういう生活が嫌いという訳ではなかったが、格段に好きという訳でもなかった。無条件で人をこき使うのが、あまり好きになれなかったのだ。それはおそらく、人一倍、いや、人三倍以上才能に溢れているが、人を見下す態度しか知らない兄を常に間近で見てきたからだろう。確かにあの兄は、才能に溢れている。才能を水、人をその器に喩えるなら、俺は大方ビールジョッキに一杯といったところだが、あの兄は中華鍋に一杯といったところだ。人を見下すような態度もひっくるめて、非常に経営者向けの人間と言える。 だからこそ、俺はあの家を逃げ出したかったのだ。黒羽の家に生まれたことを嘆きこそしないが、あの兄が先に生まれていたというのはもう嘆くしかない。 俺は、あいつと同じ飯を食べ、同じ部屋にいて、同じ家で暮らしているというのが我慢ならなかった。はっきり言おう、俺は奴が嫌いだ。 だけど理由はそれだけじゃない。もう一つの理由は、両親だ。 テレビの画面で見る親父は、黒羽コンツェルンのトップだけあって、さぞ厳格な人物に映っていることだろう。カメラのフラッシュを無条件で反射するような禿頭に、口元に蓄えられた髭。着こなす黒のスーツに皺など無く、その眼光は常に鋭く光っている……。 世の人々が知っている黒羽源一郎といえばまあ大体そんな人物だろう。だが、本当の親父の姿は違う。……息子の俺が呆れるくらい親バカで、過保護な男なのだ。『褒めて伸ばす』が信条らしいが、親父のやり方だと褒めすぎて逆にやれなくなると思う。 で、だ。お袋はその親父に輪をかけたくらい酷い。俺は今まで、あのお袋に叱られたことが一度としてない。俺が何をしても、『元気な子は素敵よ』の一言で済ますのだ。さらに、不慮の事故で俺にぶつかりでもしたメイドは、無条件でクビにするほどである。これはもう、親バカと言うよりは今流行のモンスターペアレントといった方が正しい気がする。 そんな両親の元で育ったとは言え、俺は一般常識は持ち合わせた、ごくごくまともな人物だ。神に誓っても良い。なぜなら、家族全員が反面教師だからな。 こうして、今までの十六年間、黒羽家での生活に辟易しかけていた俺は高校二年生への進級という人生のそれなりに大きなターニングポイントで、両親にとある提案を持ちかけたのだ。 「社会勉強ということで、一人暮らしがしたい」と。 案の定両親は反対したが、それに賛成したのは兄貴だった。俺が兄貴を嫌っているように、兄貴もまた俺を嫌っていた。奴はきっと厄介払いがしたいがために、俺の提案に賛成したのだろう。 だが、理由が何であれ、その時俺は生まれて初めて兄貴に感謝した。親父やお袋が親バカというのは、兄貴にも当てはまるからだ。 ……つまり、二人は兄貴の提案と俺の提案、要は子供の提案を断ることが出来ない、とそういうわけである。 そうして、念願の一人暮らしを手に入れた俺は、やっと自由気ままな生活を送ることができるようになったのだ。 さて、記念すべき一人暮らし二日目の今日は部屋の片付けを―― ピンポーン。 ――俺の行動を先読みしたかのように、来客を知らせるチャイムが鳴った。 * まだ荷物が色々と散らかっている部屋の中を慎重に歩き、廊下に出る。 寝間着とはいえ、このまま外に出ても問題は無い服なので、俺はそのまま玄関へと向かう。 親父の用意してくれたこの部屋は、都内の一等地に建つ高層マンションの最上階にある。防犯用に頑丈にロックされている扉のカギを外し、俺は勢いよく扉を開けた。 「はい、どちら様……」 「……」 そこにいたのは、俺の予期していない人物であった。 不機嫌な顔で、憮然として扉の前に佇む、だがしかし見慣れた顔。 茶色がかった長い髪の毛は、邪魔にならないように頭の後ろで括られ、馬の尾のように垂らしてある。鼻筋の通った小振りな顔は、薄く化粧が施されていた。長い睫毛に、アーモンドのようなくりくりとした瞳。顔のバランスは、かなり整っている。美少女と断言しても問題はないだろう。 スタイルも悪くない。着ている服を、内側から押し上げるようにしてその存在を主張する双丘。そのバストとは反比例しているかのように細く、華奢な腰。スカートから覗く足は細く、ニーソックスでほとんど隠れているとは言え、その肌は透き通るように白い。 見慣れた、非常に見慣れた彼女の名は、片桐椿。 一年時のクラスでは委員長を務めていた才媛であり、同時に俺の天敵でもある彼女は、 「め、メイド……?」 「……っ」 何故かメイド服を着用しているのだった。 玄関前でぶすっとした表情のまま、何も喋ろうとしない片桐を嫌々居間に招き入れた俺は、来客用に嫌々コーヒーを作っていた。しかし、あの黒羽の次子が、メイド服を着た女性にコーヒーを作って持って行くという様は傍から見ればどう映るのだろう。主従逆転、とでも言ったところか。 どうでも良いことを考えていると、サイフォンがカポカポと鳴った。どうやらコーヒーが出来上がったらしい。片桐が無糖派なのか微糖派なのか、それともミルク派なのかわからないので、とりあえずスティックシュガーとミルクを持って行くことにして、俺は居間のソファに座らせてある片桐の元へ向かった。 「はいよ」 「……」 目の前にコーヒーが置かれようと、片桐の視線は堅く握られた自身の両手に注がれている。表情は暗く、不機嫌なオーラというのだろうか、そんな物を辺りにまき散らしていた。 そんな彼女の姿を見ながら、不機嫌になりたいのはこっちだよ、とコーヒーを啜りながら俺は内心呟く。 正直な話、この片桐椿という女子とは全く良い思い出がない。 俺がコイツと初めて顔を合わせたのは入学式の翌日だ。片桐を一目見た瞬間から、体に電流が迸った気がした。一目惚れだとかそういう類の物ではなく、『コイツとは相容れないな』という、一種の確信めいた物である。どうやらそれは相手も同じだったようで、出会った当日からどうでも良いことでいきなり口喧嘩を始めてしまった。 そしてどうもコイツは世話焼きタイプであることが災いして、いつの間にか学級委員長として君臨していた。ちなみに俺は副委員長。悲しいかなコイツを補佐する立場である。 俺たち二人の仲の悪さを好意の裏返しによるものだと勘違いしたクラス全員による出来レースで決定したことなのだが、これがまずかった。 俺と片桐は、事あるごとに対立した。体育祭における出場種目決定や、文化祭でのクラス出店、宿泊研修の部屋割り、席替えの決定方法、etc。 運動神経も、テストの点数も、ほとんどが横並びの俺と片桐は、いつしか互いを天敵として見るようになったのだ。互いに憎み対立する間柄では、いかに距離が近かろうとも好敵手には成り得ないのである。 そして、俺たちの溝を決定的な物にしたのが、つい先日のクラス全員による進級・退学・留年記念打ち上げだった。 俺たちのクラス皆で、カラオケ店に行ったのだ。皆でどんちゃんと騒ぎつつも、その時の俺は、このクラスのメンバーで騒けるのも最後かと思うと、どうも寂しい気持ちになっていた。 最後に、何か気持ちの良いことをどーんとしたい……。 そんな思いを抱いた俺は、クラス全員のカラオケ料金を、一人で支払った。これくらいの金は、黒羽の家に生まれた俺にとって、大した金額ではなかったからだ。 けれど、これに異を唱える者がいた。当然ながら、片桐である。 「何でそんな簡単に、みんなのお金を払うのよ!」 「俺の勝手だろ? 趣味だよ、趣味」 やけに突っかかってくる片桐に、今まで気持ちよかった俺の心も急激にクールダウン。適当に受け答えする俺に業を煮やし、片桐は噛みつかんばかりの勢いで攻め立ててくる。 そうして、俺と片桐は今までで一番酷い口喧嘩をした。罵詈雑言の応酬、ああ言えば、こう言い、相手の短所を何個も見つけ、粗を探して、そこから攻める。小さい穴から大きい穴へ広げるように。相手の発言を逆手に取ったり、自分の意見を正当化してみたり。 今思えば非常にガキっぽいが、その時の俺たちは夢中だった。 コイツを言い負かさなければ進級してもしたり無いというかのように、とにかく叫び続けた。 結局、俺等二人を除くクラスメイトの仲介があるまで喧嘩が続いたのだが、勝敗はつかぬまま。俺と片桐は、互いの間にある溝を埋めることなく、新学期への準備期間、春休みへと突入した訳である。 一人暮らしも始まり、片桐のことは半分忘れかけていたというのに――、 「なんでまた俺の目の前に現れるかね」 「来たくて来た訳じゃないわ」 「ンな事はわかる」 キッ、とこちらを睨む片桐に、俺はぶっきらぼうに返した。出来ることならとっとと出て行って欲しいのだが。 「……バイトよ」 誰から言うでもなしに、片桐が口を開いた。その言葉に、なるほどと思い当たる。確かにウチはバイトのメイドを募集していたりする。バイトの割りに破格の給与なので、結構人気だという話を聞いたことがあった。 この目の前の少女もそうなんだろう。大方春の新作ファッションを買うためとかなんとか。 くだらない、と俺は内心吐き捨てた。別にメイドなんてしなくても他にも稼ぎようがあるだろう。仮にこのバイトしかないとしても……何も俺の目の前に姿を現せなくても良いと思うのだが。 「……まさかなあ」 「なによ」 「いや、こっちの話だ……」 ふと頭に思い浮かんだ、非常に、とっても、ものすごく嫌な予感に俺は背中がうすら寒くなる気がした。これは俺の快適な一人暮らしに大きな影を落とすほど由々しき事態だ。 この予感が果たして正しいのか確かめるため、俺は既に携帯から削除してしまった、自宅の電話番号をプッシュした。もう電話することはないと思っていたのだが、まさか一人暮らし二日目にしていきなりダイヤルすることになろうとは。 心の中で涙を流しつつ、俺は電話が取られるのを待った。 『はい、もしもし』 「俺だ、晃司だ」 受話器を取ったメイドに親父に取り次ぐよう頼み、俺はいったん深呼吸する。 『晃司か……私だ』 少し経った後、携帯から聞こえてきたのは聞き慣れた親父の声。電話の向こうで不機嫌に髭を触っている様が想像できるような低い声だが、その実俺からの電話に内心飛び跳ねたいくらいの心境だろう。 「親父、聞きたいことがある」 『なんだ?』 「今朝な、俺の家にメイドが来たんだが。これはどういうことだ、えぇ?」 ようやく根負けしたのかコーヒーをちびちびと啜って「……苦い」と不機嫌な顔でこちらを見てくる片桐(メイド服着用・上目遣い)を半眼で睨みつつ、俺は親父に問うた。 『それは、その、だな……ははは、可愛い娘だろう?』 明らかに動揺した声が聞こえてきた。これだけで親父が一枚噛んでるのは明白だな。 「まあ、それは……って、ンな事はどうでも良いんだよ。俺は一人暮らしを楽しみたいんだ。バイトなら普通に家で働かせればいいだろ。何で俺のとこに寄越すんだ」 『それはだな、椿君が晃司の知り合いだと聞いて、私としては、二人仲良く――』 「親父、俺が一人暮らしを始める時、一切の関与はしないって約束しなかったか?」 俺は尋ねる。 一人暮らしが決まって俺は割と浮かれていたのだが、両親の干渉が全くない生活は想像できなかったので、両親と約束したのだ。『約束』やら、『破ったら家に戻らない』なんていう脅し文句は非常によく効いた。 普通は、二日目で破るとは思わないだろう。 『う、だが、私としては息子のお前が心配で……』 「やっぱそうかい。……てかなあ、兄貴の心配だけしてりゃいいんだよ、あんたらは。……まぁ、とりあえずこいつはとっととそっちに送り返すからっておい!?」 「!?」 ふと視線を片桐に戻せば、奴はあろう事は俺のコーヒーにまで口をつけていた。なんだコイツは……。喉が渇いているのだろうか。 というか俺にバレたからといって慌てすぎだ。零したコーヒーで白いフリルが茶色く染まってるぞ。 『な、なんだ、どうした!?』 「い、いや……」 心配性の親父になんでもないと返し、俺は通話を切った。とりあえず、この駄目メイド――略して駄メイド――は黒羽の家に送り返すことにしよう。そうしよう。 何だかどっと疲れた俺は、軽くため息を吐き、未だ慌てている片桐の目の前に座った。 「というわけで、とっとと去ね。Go back at once」 「そ、それは無理よ!」 「はぁ?」 俺が指で出口を指し示すと、片桐はさらに慌てて叫んだ。 何が無理だというのやら。 「だ、ダメ、このバイトをクビになったら困るの……だから……」 片桐は潤んだ瞳で、俺のことを見上げるようにして言った。 捨てられた子犬のようなその姿は、男なら皆、抱きしめたくなるほどの破壊力を有している。まあ俺はそんなこと思いやしないが。 ……どうやら片桐には、何かクビになれない事情があると見える。 それなら俺の答えは……一つしかないじゃないか、なぁ? 「じゃあとっととクビになれ」 「なんでそうなるのよ!」 慈悲もない俺の言葉に、片桐が噛みついた。 「あのなぁ、俺は一人暮らしを楽しみたいんだよ……。ようやくあのクソな家から抜け出してきたってのに、今度はお前と同居。ふざけんじゃねえっつう話だよ」 ようやく安寧の日々が訪れると思えば、いきなりこれだ。俺の気持ちをわかってくれる人も多いに違いない。 「同居じゃないわよ、ちゃんと週休二日制だもん」 「五日間はここで暮らすんじゃねえか」 「まあ、それはそうだけど……、私だってアンタと一緒なのは嫌よ!」 片桐が唇を尖らせる。 なるほど、というかここまで意見が一致しているなら話が早いだろう。 「じゃあ、お互い嫌って事で……早く去ね」 「だから、ダメなのよ……! クビにはなれないの!」 「……ったく、なんなんだよお前……」 俺の世話をするのは嫌だけど、クビにはなりたくない……。 言ってる事が矛盾している。「待った!」とでも某なるほど弁護士のように叫んだら何かボロを出すだろうか……。っと、話がずれた。今は、いかにコイツを追い出すか、が問題だ。 「ホント、真面目に、心の底から出て行って欲しいんだけど」 「……この際仕方ない、か……」 「ん?」 「……黒羽……お願い、何でもするからクビにはしないで……!」 ぼそりと呟いた片桐は、俺の目の前に移動し、そして深々と地に頭をつけた。 俺はその姿に唖然とし、言葉を失ってしまう。まさかあの片桐がここまでするとは……。この俺にも予想外だった。 だが、俺は驚いていただけではない。この言葉を聞いて、きっと俺は悪魔のような笑みを浮かべていたことだろう。 『何でもするから』……なるほど、便利な言葉だが、この女は俺が何をするかなどと考えてから言っているのだろうか。 「顔を上げろよ、片桐」 「……黒羽……」 プライドをかなぐり捨てた片桐は、今にも泣きそうな顔で、俺を見つめていた。多少、心の中の良心が疼くのだが、こいつを追い出し、平穏安寧、素晴らしき一人暮らしを取り戻すためなら俺は悪魔にでもなろう。 「さっき、何でもするって言ったよな?」 「え、ええ……」 「じゃあ早速、して貰おうか……。俺も鬼じゃないしな、『私をクビにしないでほしいにゃん。お願いしましゅ、ご主人様』とでも言えたら、クビにしないでおいてやるよ」 どうせ言えないだろう、という思いを込めた瞳で片桐を見据える俺。というか口に出した自分も恥ずかしいが。 片桐は俺の言葉に二の句が継げないでいた。そりゃあそうだ、プライドの高いこの女が、大嫌いな俺の事を『ご主人様』などと呼べるはずも無い。まあ俺の思わぬ台詞にどん引きという可能性もあるが。 どうやら片桐はかなり迷っているようだ。 「……言えたらお前は晴れて俺のメイドだ。だが、言えなければ……無条件でこれだ」 親指を立て、首元をかっ斬るポーズ。片桐の小さい肩が、びくん、と揺れた。 「どうするんだ、片桐?」 「ぅ……わ、私を……」 「私を?」 急き立てるように俺は片桐の言葉を繰り返す。……傍から見たら俺は鬼畜なエ○ゲの主人公じゃないかと思って、少し悲しくなった。 だが、これは俺の平穏な一人暮らしを手に入れるための聖戦なのだ。気にすることはない。 「く、クビに……しないで……ほし……い、に……ゃん」 「……続けろ」 「お願い……しま…………しゅ」 震える声で、片桐は続ける。俺の前で正座しながら、視線はずっと掴まれているスカートの裾に下ろし、彼女はこれ以上ない屈辱と戦っていた。 よくやるねぇ、と内心呟き、同時に俺は少し楽しみでもあった。 果たして片桐椿という女は、自身のプライドを捨て去りきれるのだろうか。 「……お願い、しましゅ…………ご、ごしゅ……」 「ごしゅ?」 「……ご主人様ッ!」 「はははっ、よく言ったな、合か――え?」 「黒羽……よくも、よくもッ――!」 突如、流れゆく時間がスローモーションになったかのように思えた。 瞳に涙を湛えた片桐の手から、何かが飛んでくるような――。 次の瞬間、びちゃあ、という音が聞こえ、そして俺は顔全体を襲う熱さに悶えた。 床を転がりながら片桐に視線をやれば、その手にはコーヒーカップがあった。熱い、出来たてのコーヒーが入っていた、コーヒーカップが。 なるほど、油断していた俺に反撃の一手を喰らわせたって訳か……。 良い度胸じゃねえか、この駄目メイドぉぉぉ……! 心の中で叫びながら、俺は目に染みこんできたコーヒーの痛さに気絶した。 * 「……」 「怒るのはどちらかというと俺の気がするんだがそこのところどうなんだ?」 目を開き体を起こすと、相変わらず不機嫌そうな顔で反対側のソファに座る片桐が見えた。着ている服が代わっているのと、髪がべと付いていないこと、ソファに寝かされていることから鑑みるに、どうやら片桐はメイドとしての責務を一応は果たしたらしい。まあ、自分で巻き起こした結果なので当然という見方も出来るのだが。 何もせずに俺を放っておくような奴であれば、当然ながら即刻追い出すが、片桐は自身にも責任があると考えたのか、メイドとして放っておいてはいけないと考えたのか、なんにせよ俺の世話をした訳だ。 そんな奴を追い出すほど、俺は鬼畜ではない。え? さっきはまるで鬼畜ジャンルの主人公みたいだっただと? それはきっと気のせいだな。 「ま、とりあえず合格だよ片桐。……ちゃんと俺の事を世話してくれたみたいだしな」 不機嫌そうな片桐に、俺は言葉をかける。 「と、当然でしょ? 私はメイドなんだから……。凄く、嫌だけどね……」 「本当に嫌そうだな……」 どっと疲れたような顔をしている片桐の姿を見て、俺は少しおかしくなった。 確かにコイツは天敵というか、あまり好きな奴じゃないけど、 「ま、ウチの奴らといるよりはよっぽどマシだ」 「黒羽……何か言った?」 「いや、何でもないさ。というか、『ご主人様』だろうが」 「絶ッ対嫌よ」 なんだとコイツ……。 「お前な、立場をわきまえろよ、立場を」 「嫌なものは嫌よ。あれは、クビにならないために仕方なかったんだもの」 「お前なぁ……」 「何よ」 結局のところ、俺と片桐は喧嘩しかできないのかね。 いつものように言い争いつつ、ふと、そう思った。 * 「……マジで寒い」 三月中旬の夜は、まだまだ寒い。そんな真夜中、俺は一人でリビングのソファに座っていた。片桐はいない。今頃俺のベッドで幸せそうな顔して眠っていやがることだろう。畜生め。 この家に、ベッドは一つしかない。当然だ、俺が『一人で』暮らすための家なのだから。 だが、片桐というイレギュラーがやって来たことで、必然的にベッド争奪戦が起こってしまった。ご主人様とメイド、常識的に考えればメイドが道を譲るのが当然だが、あの反骨精神の固まりにそんな常識が通用するはずがなかった。『ここは女子である私がベッドを使うべきよね。女性を寒がらせる男は男として失格よ』などとのたまいやがったあの反骨メイドは、俺に反論する間を与える事無く、俺の寝室の扉を閉め、カギをかけた。内側からしか開けないカギだ。俺は今日ほど自分の部屋にカギをつけたことを後悔したことはない。 というか、あのメイド、変なところ弄くらないだろうな。クローゼットには色々と女性には見せづらい本があったりするのだが……。 「……心配だな……」 しかし、いくら心配しようとも、俺にはどうすることも出来ない。やろうと思えば寝室に侵入してブツだけをかっぱらうことも可能であるが、女性が寝ている部屋に入るのは男として勘弁願いたいところだ。さっき鬼畜主人公だったじゃねえかだとかそういう突っ込みは受け付けない。 結局俺は、悶々として眠れない夜を過ごしたのだった。 「はいこれ」 朝、目の下に大きな隈を作っている俺の目の前に姿を現せた片桐は、無表情でとある物を差し出してきた。……ブツだ。 「……………………ジーザス」 しかも何たることか、俺の一番お気に入りのブツ……! 「……黒羽の趣味は、ポニーテールで、それなりに胸が大きくて、活発そうな女子だってことがわかったわ……」 「……何も、言うな……」 というか全部見たのかこのメイド。 「ポニーテール……やめようかな……」 ため息混じりに呟いた片桐の顔は、本気で逡巡しているようなものだった。 * 「ああ、そうだ……」 「なによ」 トーストを頬張りながら、俺は目の前に座る片桐に言った。対する片桐は、不機嫌そうな顔で俺を見る。だから何でコイツはこんなに反骨精神溢れているんですかね。それと、ポニーテールをやめてしまったのは個人的に残ね――いや、別にコイツをどうこう思っている訳ではないので俺が言う事じゃないか。 「今日、買い物に行くからついて来いよ」 「一人で行ってきなさいよ」 コイツはどうしてメイドというアルバイトに就いているのでしょう。 俺には全くわかりません。 「いや、そこはメイドとして首を縦に振るところだろう」 「……あんたと一緒に出かけるってのだけで、何だか嫌よ」 「はぁ……」 本当に、何でコイツはメイドとしてここに来たんだろう。 いや、メイドが必要ないように、一人暮らしのための訓練は積んできた。だからメイドは必要ないけど、いるならいるで色々助かるのだ。それがこのメイドは、ご主人様の役に立とうという気が全くない。 「しゃーない、ボーナスでも出すか」 嘆息し、小さく独り言を呟くと……、 「行くわ」 「心変わり早いなおい」 ノって来やがった。何となくコイツの扱い方を理解してきた気がする。 「それで、何を買うのよ」 「いや、それ以前にお前は何でメイド服を着ていないんだ」 俺の目の前にいる片桐は、メイド服を脱いで何故か私服を着ていた。女物のファッションとかはよくわからないのだが、非常に似合っていて、可愛いと思う。 って、俺は何を考えているんだ? 片桐が可愛いとか、アホか俺は。 「メイド服で、外に出られる訳ないでしょ?」 「いや待て、なんのためのメイド服なんだ。メイドがメイド服脱いだらそれはメイドじゃないだろ」 「なんなのあんた? メイドフリーク?」 「……ご主人様に随分失礼な事言ってくれんじゃねえか」 言い争いながらも、俺たちはまだ寒さの残る街中を歩いていた。 PR コメントを投稿する
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